RとLの発音ができなくて大学一年の時に立たされた私。社会で成功している人は、こういう時、コンチクショーと発奮するらしいのですが、根性の無い私は、やっぱり英語は私には無理と簡単にあきらめ、それからはどちらかというと授業はサボって、もともと好きだった読書のために図書館通いや芝居通い。

劣等生のまま4年生になったので、さあ就活が大変。当時は四大に行く女子は5%くらいですから希少価値があるかというと大違い。出版社などでは、短大で衣服や栄養、料理でもやってきたなら使い道あるけれどねと断られるし、新聞社や放送局は最初から成績が悪くてムリ。でも、メディアの仕事につこうと考えていたんです。ひどい低血圧で朝が苦手。初回に書いたように入学式から遅刻している私は、まず9時5時の勤務は向かないと思ったからです。人の何倍でも仕事するエネルギーはあり、真夜中まで働くのも厭わないけれど、パターンにはまって働くのはなあと、まあ若くて傲慢だったんですねぇ。

府中街道に面した津田塾大学。美しいキャンパスと津田梅子(※1)にあこがれて入学。

 

さて、夏休み直前になって、メディアの世界にと方針を決めたのはいいものの、慌てたのは当時、父親が東京から大阪に転勤になり、私は小平にある津田塾のキャンパス内にある寮で暮らしていたのですが、その寮が休み中閉鎖されることでした。

どこを拠点に就活すればいいのか。住む場所がなくなるわけです。親友が家に来てもいいよと言ってくれたのを幸い、そのお宅で居候を始めた。ところが、津田塾の寮も新宿から一時間以上かかる不便なところでしたが、さらに遠い埼玉県の飯能。

私は大学の学生課でメディア関係のOGを調べそのリストを持って毎朝、西武新宿線で飯能から新宿へ通いました。今とは違って携帯など無い時代です。見知らぬ先輩たちに電話しアポをとるのですが、そのOGが結婚して退職していたり、在籍していても不在だったりするわけで、落ち着いて電話のできるところが必要でした。

そこで知り合いから教わったのが、当時でも珍しく、たぶん新宿にも一軒しか無かった各テーブルに電話機のある喫茶店。営業マン風の男の人とか、大学生の私にはどういう職種か見定めのつき難い人たちが多く、女性は少ないし、入るのに躊躇しました。
でもためらっている暇はありません。勇を決してテーブルにつき、電話をせっせとかけても中々めざす人は捕まらない。女性って男性より離職率が圧倒的に高くて、先輩を頼るというこの戦法でいいのかと自信をなくしそうに。でもうまくしたもので、そういう時に先輩がつかまる。「まあ津田の後輩なの。うちも小さい会社で新卒はとらないと思うけど、まあ来たら?」ああ、やっとしばらくこの喫茶店から抜けられると嬉しくて、いそいそとその会社を目指して先輩に会いに行ったものです。

第7回はここまで。
次回10月9日の「劣等生の就活」②
「Vol.8 人生が変わっていたかも」に続きます。

<脚注>
※1 津田梅子
明治の教育者。日本の女子教育の先駆者と評価される。1900年(明治33年)に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。認可を受けると東京麹町区に開校し、塾長となる。

 

vol.7 『劣等生の就活』 ①「寮が閉鎖で就活できない」