当時は大手の出版社が潰れて、出版界はどこも厳しく、
新卒者を余りとらない状態でした。

大学の先輩のいるところもどこも新卒をとらない。焦りました。疲れて友人の家に帰ると、友人の母上が、「より子さん、お父様のおっしゃる通り、大阪に帰って就職したほうがいいんじゃないの」と言われる。この母上も津田の先輩で、マスコミなんて志望して新宿の喫茶店に通勤(?)している私を心配して下さってました。親の世代はそもそもマスコミはやくざな世界だと思っていて、そんなところに娘を就職させたくないようでした。

私を居候させてくれていた友人はちゃんと教師になる道を選んでいた。私も一応教育実習も終え中学高校の英語教諭の免状はもらえるので、教師になったほうがいいのかなあと揺れました。授業なんて全然受けようともしない不良少年のいっぱいいたクラスの教育実習は面白くて、教師に向いていると思ってもいましたから。というのもその子どもたちとホント仲良くなって実習の最終日は「先生になって必ず来春戻ってきてね」というみんなと抱き合って泣いてしまいましたもの。

若い頃の父の写真。背が高くてスポーツマンでそれでいて料理もする。自慢の父でした。

大阪にいる父も教師になれと言ってました。そしてさらに甘言が。「教師がいやなら大阪で新聞社に入ればいいじゃないか。お父さんが入れてやる」。

ぐらっとしましたね。でも、親のコネとか見合いとか、そういうものに抵抗して生きることを美学としていた当時の私。当時だけじゃない。今もそうかもしれません。私ってあまのじゃくなんです。楽な道を選ぶのをいさぎよしとしない。人と群れたくない。だからベストセラーとか行列とか嫌いです。

私が後年、細川護熙さんがつくった日本新党に参加し、政治の世界に足を踏み入れたのも、「みなさんに断られて疲れ果てました。円さんも政治なんていやだと思われてるでしょうね」という言葉だったんです。細川さんて、最初から私の性格を見抜いてらしたんですね。

それはさておき、父にさからって、東京で就活を続けると言った私は「勝手にしろ。仕送りはやめるから自分で生きろ」と仕送りをとめられてしまいました。

あの時、父のいう通り、大阪で採用試験を受けて新聞社に入っていたとしたら、またその2年後、どこかの旧家の、父に似て背の高いハンサムな男と見合いしていたら…。私の人生は随分変わっていたかもしれませんね。

第8回はここまで。
次回10月16日の「劣等生の就活」③
「Vol.9 神田のガード下で広告取り」に続きます。

 

vol.8 『劣等生の就活』 ②「人生が変わっていたかも」