週刊誌でアシスタントとはいえ、本格的にデータマンとして原稿を書いた初仕事が心臓移植手術だったわけですが、後年、私は国会議員になった際、この臓器移植と関わり「脳死は人の死」として臓器移植を進めることに反対する立場で議員立法をつくることになりました。

北大の和田教授の心臓移植は医学的には快挙といえるほどのすごいことだったと思います。でも、私が取材した範囲では提供者の側の承諾がどこまであったのか、移植が適切だったのか明確に見えませんでした。もちろん脳死の判定基準もなかったと思う。それどころか、まだ死というものは心臓や呼吸がとまることだと思っていた時代だったのです。そんなこともあり1968年以後、わが国の臓器移植は国民の信頼を失い、かなり停滞してしまったのです。

でも、臓器移植で助かる命を救いたいという人が多いのも事実で、多額の費用を工面して海外での提供者を待って手術に踏み切る人々も出てきていたことはみなさんもご存じですよね。

1992年、臨時脳死及び臓器移植調査会(※1)が、脳死を人の死とすることについては概ね社会的に受容され合意されているので、一定の要件のもとでなら脳死体からの臓器移植を認める旨の答申を出しました。そして、私が国会議員になった翌年の1994年4月には「臓器の移植に関する法律案」が衆議院に出されたのです。医学が発達し、人工呼吸器や高度な生命蘇生術のおかげで脳は死んでいるが身体は生きているという場合が増えてきたからです。もちろん厳格な条件のもとですが、脳死の時に心臓などを取り出して移植することを法的に可能にしようということになったのです。

93年7月に議員になって、厚生部会の朝の勉強会でこの臓器移植について説明されたのですが、私は即賛成とはいえませんでした。脳死と宣告されても出産した妊婦の例もあるし、いくら他の人の命を救えるとはいえ、脳死を人の死と認めることに抵抗がありました。

厚生省の課長さんだったかに「円さんだって子どもさんが移植でしか助からないとしたら、この法案に賛成してくれるのではないですか。子どもの命と引き換えでも賛成できないのですか」と脅されるような言われ方をされました。

「冷たい人だ」とまで言われたのですが、すんなり賛成できず、その3年後、国会で大議論になった時は、脳死を人の死として臓器移植を進める中山案(※2)ではなく、脳死を人の死と一律に規定せず臓器提供には本人と家族の意志が必要で、国が強制的にドナー登録などをさせないことなどかなりしばりをかけた修正案猪熊案(※3)を共に作ったのです。代理母(※4)の議論の時もですが、医学がどんどん進歩しているのに法律が追いついていない。しかし生命倫理に直結しているものは宗教観・文化論もからんで立法というものをとても難しくしていて、責任の重いものだと感じました。

その後、子どもの臓器移植提供が認められ、2012年になってから、大英断をなさったご家族のことも報道されました。あの時、脳死を人の死ではないと考えた私は古い人間なのかなぁ、子どもの死を受け入れ、待ち望んでいた人たちの命の中で子どもの大事な臓器が生きていくことを選んだ人はすごいなぁとただ感動しました。

父や妹が死んだ時、いつまでも暖かい身体にすがりつき、手足が冷たくなってしまってもさすり続けて語り明かした私には、エゴイスト、冷たい人と言われても、まだ暖かい身体を手術室に運び切り裂いて臓器を摘出することを選ぶ勇気がありません。

第15回はここまで。
次回12月3日の「劣等生の就活」⑩
「vol.16 編集会議に毎週10本の企画」に続きます。

<脚注>
※1 臨時脳死及び臓器移植調査会
脳死や臓器移植に関連して、臓器移植の分野での生命倫理における適正な医療の確保のため、総理府に設置されていた調査会。

※2 中山案
中山太郎元外相(自民党)ら十四人の超党派議員が提出した臓器移植法案。脳死を人の死と位置づけ、臓器提供は本人意思を事前に書面で示し、かつ家族の同意も必要とした。

※3 猪熊案
中山案に加えて脳死判定に従う意思も本人が書面で示し、かつ家族がこれを拒まないときに限って脳死を人の死と認めるもの。

※4 代理母
受精・出産に支障のある女性に代わり、受精卵を自らの子宮に着床させ、出産までを行う女性のこと。

vol.15 『劣等生の就活』 ⑨「国会で臓器移植法案に関わる」