なぜ政治家を志したのですか。
どうして政治家になりたかったのですか。
こういう質問をよく受けます。政治の世界に入ってもう20年ですから、当然かもしれませんね。

私、政治家になりたいなんて思ってもいませんでした。まわりに政治家はいなかったし、政治家と会ったこともなかったし。

その私が政治の世界に足を踏み入れるきっかけは、熊本県知事をやめ、総理の諮問機関である行革・臨調の「豊かなくらし」部会長をしていた細川護熙さんが日本新党を立ち上げたからでした。

自民党政権が40年近く続き、金権政治に国民がうんざりしているところへ細川家18代目の「お殿様」が地方主権・生活主権を標榜して自民党に対抗しうるリベラルで穏健な保守政党を立ち上げたことに、国民の間には久々に大きな期待と関心が寄せられていました。

その細川さんから月刊「文芸春秋」が送られてきて「会っていただけませんか」と電話があったのです。

7月には参院選がある。その候補者を探していることはメディアでも報じられていて、様々な有名人の名が予測されていた。会ってくれませんかというのは当然、候補になってくれと同義です。

当時私は45才。小3の娘との母子家庭で、「家庭画報」などの月刊誌、「サンデー毎日」等の週刊誌の連載やエッセイなどいくつもの原稿を抱え、単行本の執筆中でもありました。もちろん、講演やTV出演は翌年分まで入っていた。

私の稼ぎで支えているボランティア活動もあり、候補者になるということは、そういう活動や稼ぎに制約が加わることになるかもしれない。

いろいろなことが一度に頭をかけめぐってたけれど、私は細川さんのていねいで物静かな物言いに「ハイ」と答えていたのです。

私の友人はみんな「マドカはいい男に弱いからねえ」と笑ったけれど。

1992年6月5日、細川さんが私の賃貸マンションの一室に訪ねてこられましたが、彼はぜひ一緒にやってほしいと熱心に説き伏せようとはしない人でした。

「みなさん新党をつくるのは快挙だと言って下さるのですが、では参加してくれませんかと申し上げると、一様にいろいろ理由をつけて引いてしまわれるんです」

細川さんは疲れたように、そう言われました。そして私にも「円さんも、政治に関わるなんていやだと思ってらっしゃるんじゃありませんか」

図星でした。この人は一瞬でちょっと会うくらいならと思った私のミーハーな考えを見抜いたんだと思いました。

3日間、猶予を下さいと、小1時間話して私は言いました。私は日本新党結党に加わって細川さんと行動を共にし、自民党政治を倒そう、女性の生きやすい社会を作ろう、少子化をとめる政策を打ち立てようと心に誓っていましたが、3日間の猶予は、仕事上迷惑をかける人たちとの調整、娘やスタッフの了解をとる必要があったからでした。

単行本や連載は続けられることになりましたが、テレビや新聞の寄稿、行政関係の講演は全てキャンセルになりました。

娘は「ママがやりたいならやれば」とクールでした。

ただその翌日から娘は4日間熱を出して学校を休まざるをえなくなりました。私自身は平静でいたつもりでしたが、やっぱり興奮していたんでしょうね、それが娘に伝わったんでしょう。

候補者になるだけで舞い上がる人がいると聞いていましたが、私も同じではないか。フワフワしてはいけない、そう肝に銘じ、娘が元気に登校した日、細川さんに「お受けします。日本新党に参加させて下さい」と返事をしたのです。

その日から痛快・壮快な日々がスタートしたのです。

7位だった私は(当時は参議院比例代表の候補者には順位があったが、今はなく、個人名の得票数で当選が決まる)、その7月の選挙では落ちましたが、翌年、繰り上げ当選になるまでの1年、日本新党にのめりこみ、事務所の仕事はスタッフに任せっきりで、高輪の日本新党本部に日参したのです。

女性のための政治スクールの立ち上げ、党則にクオータ制を導入、政策作り等々、自民党を次の衆院選で打倒し、生活者主権の政治を打ち立てるため、情熱に燃えて仕事をしていました。まだ政治のイロハもわからない時でしたが。

第43回はここまで。
次回6月25日の「危険な時代⑧」
「vol.44 マル高という名の出産」に続きます。

vol.43 『危険な時代』 ⑦「ある日、細川護熙さんが」