細川護熙さんに政治の世界に誘われた時に小学生だった娘を産んだのは私が35歳の時でした。

その前年、不正出血があって婦人科の診療を受けると鶏卵大の卵巣のう腫ができていました。子どもの頃に盲腸の手術をして以来、病気をしたことのなかった私。かなりのショック!

それまで、「親になるなんてこわい」と思っていたし、子どもはいなくていいと考えていたのに、産めなくなる気がして、それはとても寂しいような気持ちになったのです。

不思議ですね。卵巣のう腫だからって産めないと言われたわけではなく、全く科学的合理的ではないのですが、それからは、街中や旅先で赤ちゃんに目がいくことが多くなりました。そんな時に妊娠がわかったんです。

とびあがって喜んだのはいうまでもありません。

でも、当時、私はフリーのジャーナリストで収入は不安定、ニコニコ離婚講座やハンド・イン・ハンド(母子家庭のネットワークを作って会報誌を出していた)など、やればやるほどお金の出ていくボランティアの仕事もしていたので、子どもを安心して産み育てられる状況ではなかったのです。また、彼のほうもいろいろな企画に手を出しては借金を重ねていて、アパートの家賃も滞る状況でした。

それでも不思議、女は強しというのか母は強しというのか、この子を絶対、丈夫に産んで育てようという気持ちがむくむくと湧きあがってきて次から次に仕事を取り、原稿を書きまくり、産まれる日まで仕事をしたんです。産まれた1カ月後には北海道のテレビ出演も入れ、単行本もゼロ歳児を抱えて1カ月で書きあげたし。

「君死にたまふことなかれ」と詠ったあの与謝野晶子なんて、あんな素晴らしい作品を次々と世に出しながら12人(1人は生後2日で死亡)もの子どもを産み育てているんだから、私なんか駄文を書いて子ども一人でふーふー言ってられない、そんな気持ちでしたね。

ただ、誰にでもお勧めできるものではありません。40を過ぎてから子宮内膜症と強度の貧血に10年以上悩まされましたから。

やっぱり出産前後はしっかり休まなきゃ。10ヶ月の身重で飛行機で大阪に行き、関西テレビの昼の番組に5日間出演したりできたのは6キロしか体重が増えず、産んだ翌日には妊娠前の体重に戻っていて、それを自慢していた私でしたが、人間のからだは正直で、しっかりしっぺ返しを受けましたもの。

毎月の月経のたびにどんなに充分な対処をしていても大量の出血で、講演をしている最中に絞られるように下腹部に激痛が走り、二重三重の下着から血が固まりとなってにじむのがわかったりと、それは辛くて、仕事を休んだことはなかったけれど、「自分のからだにもっと優しくしてあげればよかった」と後悔の念しきりでした。

子宮内膜症や子宮筋腫に悩む女性は多く、手術で切るという選択肢もあったのですが、その後何かと私の相談相手になって下さっている堀口雅子医師に診察してもらい、切らずに薬や注射で月経を止めることにしてからは、本当に楽になりました。

○の中に高と書いてマルコウと読むのですが、35歳を過ぎての妊娠出産の場合に母子手帳にポンとこのマル高の判が押されます。つまり高齢出産だよということが一目でわかる仕組みです。このマル高は、あくまで相対的にですが、母体が危険になるリスク、流産・早産になるリスク、胎児に障がいが出るリスクなどが高まるといわれています。卵巣のう腫といわれてから、妊娠するなんて思ってもみなかった私でしたが、再び不正出血があって診察を受けに行ったら「オメデタ」。流産の徴候があっての不正出血だったんです。もちろんしばらく安静に(といっても普通に仕事はしていましたが)していたら安定期に入り、無事に産むことができたのはラッキーでした。

子どもが欲しくて不妊治療を続けていた友人や、40近くなっても結婚せずにいる友人たちをみていると、「確かに妊娠適齢期はあって、神様は待ってくれないんだ」と思います。

ただ残念ながらタイミングよく、「この人の子を産みたい」って思える人に出会えるとは限らないんですよね。人生はホントままならない。でもね、子どものいない人生だって私はいいと思います。

第44回はここまで。
次回7月2日の「危険な時代⑨」
「vol.45 保育所に入れない!!」に続きます。

vol.44 『危険な時代』 ⑧「マル高という名の出産」