昨年末(2012年)、野田総理が突然衆議院を解散して総選挙となりました。その結果、民主党が惨敗し政権交代しました。公示の1週間前に、私は参議院の選挙の公認内定を得ていたにもかかわらず、党の助けになると思って出てほしいと言われて東京8区から出馬したことはすでに書きましたが、この総選挙で政権交代になったことと、もうひとつとても残念なことがありました。

それは女性議員が激減したからです。前回総選挙でやっと1割以上になったのに、今回7.9%に減ったのです。世界的にみれば163位と大きく後退。世界の平均は20.3%ですからいかに低いかがわかるというもの。

私が政治の世界に入ったのは20年前ですが、私は日本で初めて政党の党則にクオータ制を採り入れました。ノルウェーや韓国の新聞社が取材に来たんですよ。

ノルウェーは世界でも初めて「クオータ制」を採り入れて、女性の国会議員や大臣は4割以上という国ですが、韓国もその後法律でクオータ制を導入し、女性議員が増えています。

クオータ(Quota)とは4分の1の意味のクォーター(Quarter)とまちがわれるのですが、割り当てという意味で、女性を何割か割り当てるということです。

天の半分を支えているのは女性であり、有権者の比率は我が国では女性のほうが多いくらいなのに、立候補者も当選者もとても半分とはいきません。国民を代表する議員なのだから、人口の半分の女性が議員にも半分いればちゃんと女性の立場や意見が代表されると思うのに、なかなか現実はそうならない。(保育所の問題だって、子育てしやすい働き方だって、女性議員が半分いればもっと早く解決できるのになあ。)

1945年に敗戦を迎え、ようやく翌年、女性も参政権が持てた。46年4月10日の衆院選で39人の女性議員が誕生。当時は大選挙区連記制で、3人まで候補者名を書ける選挙区と2人まで書ける選挙区がありました。初めて投票権を持つ女性たちが初めて女性の候補者を選べることに高揚感を持ったと言われています。また男性たちも、3人目なら、2人目なら女でもいいかと面白がって名前を書いたとも推測されています。

今は小選挙区で1人しか書けないし、女性だけではありませんが、特に女性は「地盤・看板・鞄(これは資金のこと)」といわれる3バンがないので選挙に出にくい状況です。とはいえ、有権者が女性を選ばないのはそれだけではなさそう。

「女が時を告げれば国が滅ぶ」ということわざが古今東西あって、女は政治に向かないという考えが案外はびこっているようにも思います。

先日亡くなったイギリスのサッチャーさんは「女」ということと、階層社会のイギリスで「商店の娘」だったということで相当な差別を受けたようですし、アメリカのヒラリー・クリントンでさえ、女には「見えないガラスの天井」があると言っています。

そこで、過渡的な措置であるけれどクオータを導入したいと、私は20年前、日本新党の一員になって党則や政策を作る時、クオータ制を採り入れたのです。

しかし、女性の候補者を発掘するのは多大の努力がいりました。なかなか仕事をやめて勝つとは限らない選挙に出てくれる人はいませんから。

その後の民政党・新進党・民主党でも主張しましたが、男性たちの「逆差別だ」という声が大きく、党則に入れることはできませんでした。但し、民主党では女性議員を育てようと、候補者に「水と種」制度で実を渡す支援を始めました。

クオータの他にもうひとつ私が取り組んだのは、女性政治家の質を高めることでした。女性なら誰でもいいわけではなく、切磋琢磨して勉強しあい、支えあえるネットワークづくりにもなればと、「女性のための政治スクール」を始めたのです。

1993年の2月開校ですが、前年秋に開校のアナウンスをすると、日本新党の高輪本部の電話は鳴りっ放しで、全職員が電話対応でテンヤワンヤの大騒ぎになったほどでした。

2~3年前、維新の会でも政治塾のようなものを始めるというので応募が殺到したそうですが、20年近く前の熱気を思い出しました。

この「女性のための政治スクール」の名誉校長をお願いしたのが、1946年に誕生した39人の女性議員の1人加藤シヅエさんで当時96歳。お元気ですぐに「質のいい女性議員が必要です」と快諾して下さったのですが、開校式直前に階段から落ちて骨折。どうなるかと気をもんでいたら車椅子で駆けつけて、立派なスピーチをして下さいました。104歳で亡くなられるまで先生はスクールを見守って下さり、今も私はスクールを続け、80人以上の地方自治体議員、5人の国会議員を誕生させました。

でも、まだまだですね。我が国は。

第46回はここまで。
次回7月16日の「危険な時代⑪」
「vol.47 憲法24条まで自民党は変えるの?」に続きます。

vol.46 『危険な時代』 ⑩「クオータって何?」