70年前の10月21日、東京神宮外苑にある国立競技場で、出陣する学徒数万人の壮行会があった。私の父は大阪の大学生であったため、この国立競技場にはいなかったが、20歳になったばかりの父も、学徒出陣をして海軍に入った。

そうか、もう70年か。ということは父が生きていればちょうど90歳になる。

父は戦後22歳で母と結婚し、23歳の時、私が産まれた。24歳の時の子と思っていたが、大正12年の関東大震災の4ヶ月ほど前の5月生まれで、私は2月生まれだから、満でいうと23歳の時だったのだ。ずっと父と母は数えで私に話していたから、私が父の23歳の時に生まれたと気づいたのは、この原稿を書くに当たってである。

若かったんだなあと今更ながら思う。私の23歳なんて、まだ鼻たれ小僧もいいところで、とても子どもの親になどなれたものではなかった。

母は戦中に女学校でほとんど勉強もせず習い事もできず勤労奉仕に借り出され、戦争が終ったとたんに結婚して18歳で私を産んだから、それこそ母のお姉さんたちは料理が上手いだけでなく、生け花・お茶・お琴・裁縫・手芸と何でも得意なのに、母は料理ひとつできなかった。

私が中学生の時代は、毎朝、のろくて手順の悪い母の弁当作りにイライラしたものだ。「もういらない」と遅刻しそうになるので弁当を持たずに何度登校しようとしたことだろう。しかしせっかく作ってくれているのを持たずに行くのは申しわけなく、ブスッと怒った顔をして待ち、遅刻しないよう走りに走ったものだ。「若いお母さんでステキ」なんて友達に言われるたび『若くて何もできない母親なんてろくなことはない』と思っていたものだ。

今になれば、何の社会勉強もしないうちに18で親となった母が、箱根から西は行ったことのなかった大阪で、「全然周りの人が何を言っているかわからなかった」という大阪弁の渦中で苦労したんだろうなと思うけれど、私には当時、母の若さが重荷だった。

ところが、同じように若い父親についてはその若さが颯爽と凛々しく見えたし、何でもできる父を誇りに思っていたのだから不思議である。

キャッチボール、自転車乗り、釣り、泳ぎといったスポーツやゲームはほとんど父との遊びの中で覚えたといっていい。戦後の、食料だけでなくおもちゃもない時代だったけれど、身近にある新聞紙でかぶとを、たばこの箱で家や電車、車など、父の手からは手品のようにおもちゃが生み出された。かぶとをかぶって、長尺のものさしを刀代りにチャンバラごっこもよくやったし、ほうきにまたがって魔女ごっこもしたものだ。

走るのも跳ぶのも得意で、中学で虫垂炎と腹膜炎で1ヶ月以上入院するまでは、体育はいつも5の評価で、スポーツ選手になるつもりだった。父方の従兄姉にはラグビーやテニスで国体に出たようなスポーツマンが多いし、父も海軍では毎日4kmくらい遠泳するのが当たり前だったと言っていた。何より背が高く、肩幅がっしり、脚は長く逆三角形の体型は格好良かった。

小学校・中学校の勉強は全部父が見てくれて、中学に入る前に、英和辞典の使い方、発音記号の読み方を教えてくれ、前述した1ヶ月以上の入院中に因数分解の授業が終っていたが、中2の数学を全て叩き込んでくれたのも父だった。

当時、4年制大学に行く女性はとても少なかったが、「よりこは大学に行け」と小学校の頃から言ってくれたのも父だった。小さい頃から大学に行って仕事をするのは当たり前と思っていた気がする。「女の子らしく」という育てられ方はされなかった。おままごとや人形ごっこは好きでなかった私だったからなのか、父が男の子のように育てたからなのか、そのあたりの因果関係はわからない。

しかし父は料理も上手くて、母が熱を出して寝こんだりすると、すべて父が食事を作ってくれたし、父の後片付けや掃除は徹底していた。

私が夕飯の食器洗いを終えた後など、「これでやったといえるのか」とこっぴどく叱られた。食器を洗うだけでなく、生ゴミを捨て、流しをピカピカに磨いておくのが父流だったからだ。でも、母は掃除が下手だし流しもピカピカじゃないのに、母にこそ徹底させればいいのに、と私は思ったものだ。しつけは母によりも妹によりも私に対してのほうが厳しかったように思う。

あんなに父が大好きで、父との時間が多かったにも関わらず、思春期以降、父と接することは少なかった。日本全体が経済成長し、父も会社の中で重要な地位を占め始め、家にいる時間がほとんどなくなってしまったからだろう。

父との時間がなくなるのと同時に、精神的にも父から自立した私だが、38歳で父の死に直面した時、父の人生についてほとんど知らないことに気づいた。

学徒出陣したことは聞いていたが、どんな青春時代だったのか、62歳という若さですい臓がんで亡くなったが、自分の人生をどう総括していたのだろう。

死の1週間前でさえ、「足腰が弱くなっては大変」と、ベッドをつかみながら歩行訓練をしていた父。そのガリガリになった体を見ながら父に「死期が近いこと、そしてすい臓がんだということ」を知らせないと言い張った母をうらめしく思っていた。私は知らせて「人生の店じまい」をさせてあげたかったと今でも思っている。

第62回はここまで。
次回12月3日のめぐりあえた人たち ⑦
「vol.63 <タイトル未定>」に続きます。

vol.62 『めぐりあえた人たち』 ⑥「62歳で逝った父」