1月14日に成人式を迎えた人たちが生まれた年に内閣総理大臣に就任した細川さんを知らない若い人がいるのも当然かもしれません。また、細川さんと小泉純一郎さんというそれぞれ強烈な個性の持ち主である元総理二人が並んで、細川さんの都知事選参戦を伝えた映像に衝撃を受けた人たちが猛烈なネガティブキャンペーンを始めています。

細川さんにしてみればどちらも想定内のことで、そうしたリスクがあっても、今、この国難に立ち向かわなくてどうするという思いで立ち上がられたのだと私は思っています。

細川さんが議員辞職なさったのは民主党結党から間もない時期で、それ以来、陶芸・書に没頭なさり最近は建仁寺などの襖絵にも挑戦、野良仕事にも精を出しておられたのです。細川さんの末席をけがすばかりの弟子である私は、四国松山から札幌まで細川さんの個展があれば出かけるし、ゴルフもしないのに細川さんのゴルフの後の食事のため軽井沢まで行くなどミーハーぶりを発揮していました。

細川さんは「新聞も読まないしテレビも観ない。生ぐさい政治の世界にまどかさんよくまだいますね」とからかい、実際、細川さんからは細川頼之(※1)の言葉を書いた大きな書をいただいたのですが、そこには足利幕府の管領として義満を補佐し、半済令(※2)の施行や南朝との和睦などを行なったものの、1379年の康暦の政変(※3)で失脚したときの「人生五十功無きを愧ず」と始まり、「権力者に青蝿のようにたかってくる人間どもが煩わしい」と書かれているのです。

民主党を作り上げた最大の功労者なのに、そのことも言わず黙って議員を辞した心境がこの書にこもっていると私は想像し、この額を大切にしていますが、細川さんは実に韜晦(とうかい)の名人で、新聞など読まなくても重要な情報は全てご存知だし、小泉さんが総理の時に靖国を参拝し、中国との関係が微妙になった時、頼まれて江沢民さんや胡綿濤さんに会って関係修復をなさったと聞いています。

そういうこともごく身近な人にしか知らせられないから、優雅なお殿様と思っている方が多いけれど、日本が世界から孤立しないよう、信頼される国であるよう人一倍心を砕き、また実行できる力のある方なのです。

2011年3月11日の大震災以後は、会話の中身はがらりと変わりました。

まずは原発ゼロ。次に森の防潮堤。そして安倍内閣のあまりの右傾化。
再稼動と輸出をやめ、即ゼロを宣言し、代替エネルギーや自然エネルギーに予算を投入し、汚染水対策・廃炉・核のゴミ対策には世界の叡智を集めなければと、反対派推進派さまざまな方と話し合っておられました。イデオロギーにとらわれず、不偏不党でやらなければいけない問題で、これは文明災であり、国内だけでなく国際問題だと考えておられたのです。

森の防潮堤は、コンクリートの防潮堤よりも、ガレキを資源として活かしてガレキの上に盛り土をし、タブの木やナラの木を植樹し、命を守る森の防潮堤をつくるという壮大な計画で、実際、財団をつくられて宮脇昭(※4)先生らとともに植樹をしておられます。

私も当時の細野環境大臣や平野復興大臣、林野庁の方々と細川さんとの会合をセットしたりほんの少しですがお手伝いをしています。安倍政権の右バネの利きすぎにはずっと心を痛めてられましたが、原発にしろ、この右バネにしろ、野党がもっとしっかり安倍政権を追及できていたら、細川さんは都知事選に出る気にはならなかったと私は勝手に思っています。

また小泉さんだって田中秀征さんだって後押しはしなかったと思います。テレビでは「過去の人」だとか「知事は若い人がいい」と言っていますが、知恵も度胸も経験もある高齢者をあなどってはいけません。原発ゼロに向け、この国の100年後を考え、細川さんは命を縮めてもやらなければという思いで立たれた。言ってみれば憂国の情です。

奥様の佳代子さんもおっしゃいました。「このままでは100年後の日本が沈没してしまうのではないかとこの国の子どもたちのために心配してたの。護熙さんには最後のご奉公でやってもらいたいの」

東京都知事は国政にも大きな影響力があります。被災地の人々とともにできるオリンピックの成功、世界のモデルとなれる高齢者のくらしやすい町、女性や若者がいきいきと働き子どもを育てられる都市、そしてもちろん災害に強く、水や緑の美しい景観の町を細川さんに創ってほしい。支援の勝手連「東京から夢ある日本を創る会」をつくりました。https://www.facebook.com/tokyoyumeを見てくださいね。

<脚注>
※1 細川頼之
細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。室町幕府管領。細川氏の本家京兆家の当主。足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。

※2 半済令
半済(はんぜい)は、室町幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたことを指す。半済を認める法令を半済令または半済法という。

※3 康暦の政変
1379年(天授5∥康暦1)室町幕府の管領細川頼之が追放された政変。頼之は若年の将軍足利義満をたすけて10余年間幕政を主導したが,斯波義将以下諸大名の多くは頼之に対する反感を強め,1378年(天授4∥永和4)頼之の養子頼元を主将とする紀伊・和泉南朝軍の追討も失敗した。義満は反細川派の山名義理・氏清兄弟を紀伊・和泉守護として南軍を討たせ,ついで79年2月同じく反細川派の斯波義将,土岐頼康に大和の乱の鎮定を命じた。

※4 宮脇昭
宮脇 昭は、生態学者、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長、横浜国立大学名誉教授。1970年、後に「宮脇方式」と呼ばれる、土地本来の植生をポット苗を用いて植える方法による環境保全林造りを初めて新日本製鐵大分製鐵所で行う。この森造りの成功によって、企業や地方自治体など宮脇方式を取り入れた森造りが盛んになった。80歳を超える現在でも精力的に植樹活動の指導を行なっている。

第70回はここまで。
次回は1月28日に。

vol.70 「細川護熙さんと都知事選」