劇場型都知事選の過熱報道、リオ五輪の熱気を経て、暑い夏も終わりを告げようとしています。
7月の参院選は遠い過去のできごとのよう。でも衆参ともに改憲勢力が2/3を占めたことは厳然たる事実です。
立憲主義を守るため突如参院選に参入した私ですが、自民党改憲草案を土台に議論するという安倍政権の
改憲をいいだくだくと見ているわけにはいきません。
そこで立憲主義を貫く私たちの憲法と取り戻すために「立憲主義推進機構(仮称)」を立ち上げるつもりです。
今回、「立憲主義の立場から憲法をとり戻そう」と題して思いを書きまとめました。ぜひ、お読みください!

「立憲主義の立場から憲法をとり戻そう」

  • 国民が選んだのは憲法改正ができる2/3
    2016年7月の参院選の結果、衆参両院で改憲派が2/3を占めることになった。その2/3って何なのと私円より子もしばしば街頭で問われた。民進党のポスターには2/3を阻止しようと書いてあり、「2月3日を阻止するってどういう意味?」と真顔で聞かれた候補者もいたらしい。憲法96条にはこうある。「この憲法の改正は、各議院の総議員の2/3以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」。2007年5月には安倍政権下で国民投票法が成立し、憲法改正を悲願とする安倍総理は国会で憲法改正の発議をするため2/3という規定は厳しすぎると考え、これを過半数で良しとできるよう96条の改正に言及したことは覚えておられる人もいよう。私はこの安倍さんの改正案に反対し、2010年に落選したので議員としてではないが政治活動を続けていた杉並区内のJR荻窪駅で96条改正の賛否を問う駅頭活動を連日行った。どちらかにシールを張ってもらうのだが、9条のことは知っているけど96条って何?と聞く人も多かった。憲法学者の小林節慶応義塾大学教授が96条を改正しようというのは憲法改正の裏口入学だと喝破したことをマスコミが取り上げたことから、反対機運が高まり、安倍さんはこれをあきらめざるをえなかった。

    しかし今回の参院選で改憲派が2/3を参院でも占める結果になった。

  • 立憲主義を守りたい一心で参院選を闘った民主党の副代表や東京都連会長経験のある私が小林節憲法学者が参院選直前に立ち上げた確認団体「国民怒りの声」から参院選比例の候補として闘ったことを不審に思った人も多かった。しかし、国会議員になってからの私の一貫した活動を見続けてきてくれた人たちは、「勝ち負けにこだわらず頑張れ」と理解してくれた。まず、昨年(2015年夏)民主党執行部が私に引退し、衆院東京8区(杉並区)を若い人に譲ってくれと言ってきた。2012年冬の衆院選告示日の5日前に、強大な敵のいる8区から出て東京の候補者を一人でも当選させてほしいと要請したのは党執行部だ。都連会長として東京の公認権を持っていて空白区を作らないよう努力したことのある私としては党の思いを理解し、初めて杉並区で衆院選に挑んだ。この後、学生時代から何度も住み続けた経験や私の政策に共感する支持者が多いことから杉並を地盤とすると決め、2014年12月の衆院選も挑戦した。この選挙は党代表の海江田万里さんが落選、総理経験者の菅直人さんですらようやく惜敗率で当選という、東京は惨敗の選挙だった。しかし前回より2万票という、民主党東京のどの候補者より票を伸ばした私は、惜敗とはいえ、他の候補の当選に大いに貢献したはずだ。そこで全国比例の議員として維持してきた千代田区の個人事務所を閉めて杉並区内に新たな常設事務所を開き、駅頭活動など地道な地元活動を始めたのだ。今度こそ勝てると、緻密なデータ分析を党に提出もしていた。それが、若い人を養成し10年がかりで政権を奪取したいので引退してほしいと言ってきたのだ。
    いつも若く見えると言われるが確かに私は68歳(当時)。世間から見れば引退時期かもしれない。しかし年寄りはいらないというのは失礼な話である。安倍政権で既に衆院改憲勢力の2/3を取られ、2016年夏には参院選もある。同日選の可能性も言われている。衆参両院での2/3を阻止すること、憲法違反の安保法制を止めることなど、日本の将来が危うくなるようなこの難問山積の時に、国会には経験や実績豊富な人材が必要なはずである。若さと情熱と体力だけで乗り切れるものではない。老壮青のチームワークが大事ではないか。

    何より10年かけて政権を奪取するという言葉に気概が感じられない。悠長すぎる。政局の読みが甘すぎる。私は引退を断った。私の後見人である細川護熙元総理、藤井裕久党顧問、輿石東参院副議長に相談しても、三者とも、「やめることはない、頑張れ」と。細川元総理など激怒して、「円さん、党執行部を蹴飛ばせ」と過激だった。

    赤松良子元文部大臣、堂本暁子元千葉県知事、樋口恵子さんらも「この高齢社会で年寄りはいらないなんて、バカにするにもほどがある。だから民主党は信頼できない」と怒った。記者会見を開こうという話も出たが、安倍政権を利することはやめることにし、地道に地元活動を続けた。

    ところが12月になって電撃的に「円さんは降りたから」と嘘の発表をし、党は常任幹事会で新人の公認を決定したのである。政権を担ったこともある政党が手続きを無視するようなことをよくやると思ったが、喧嘩する気にもならず、速やかに党の東京第8区総支部を返上し、私は腹をくくった。一人で戦うことを再確認したのである。

  • 平和と自由と平等を求めて
    安倍政権下で特定秘密保護法が成立、施行された。そして15年秋には安保法制(ある人たちは戦争法と言ったりしている)が成立。総務大臣が電波停止発言をしたり、数年前になるが、麻生副総理が「国民の気づかないうちに、ナチスのひそみにならって憲法を改正してしまえばいい」と言ったこともある。この国は今、確実に個人の権利や言論の自由、平和がおびやかされるような方向に向かいつつある。まさかと思っている間に、一夜にして平和な戦後になった国は、一夜にして目が覚めたら戦争が始まっていたということになる可能性があるのだ。私は1999年、人々のくらしに不可欠な電話を黙って盗聴できる法律が衆院で強行採決されて参院に送られてきた時の法務委員会の理事だった。盗聴法とも言われるこんな法律が成立すれば、人々のプライバシー、基本的人権、表現の自由など様々な権利が侵害される、ここから世の中が変質してしまうと思い、とことん反対するための戦略を立て、72日間頑張り通して、遂に本会議では史上初の3時間の大演説までやってのけた。当時の青木幹雄官房長官や村上正邦自民党参院会長は敵ながら天晴れと讃辞を送ってくれた。が、信念を貫いた私を民主党内の一部は「頑張りすぎだよ、妥協しなきゃ」と快く思っていなかった。

    それは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの後のテロ特措法と自衛隊法改正審議の時もそうだった。民主党は賛否拮抗し、賛成に傾いていたので、参院政審会長だった私は政審会長の辞表を出し、反対の野党の女性議員たちとマイクを握って有楽町や国会前では反対を訴える傍ら、同志だった大橋巨泉さんに頼んで国会内の反対集会に出てもらった。彼が出ることでマスコミが注目してくれると踏んだからである。

    テレビに映って、いかにも仕事をしているようなパフォーマンス上手な議員もいるが、それとは真逆な地道な活動をしている人も多い。私もその一人として、信念を貫いて、平和と自由と平等のために闘ってきたという自負がある。しかし党は「次は除名だ」と宣告した。どうも、信念を貫くと嫌われるらしい。今回の引退勧告や黙って新人を擁立するなど、私を排除する挙に出たのは、年寄りというのは表向きで、細川元総理らと原発ゼロを訴えていたのが労組の強い民主党のアキレス腱に触れたかららしい。平和と自由、原発の問題だけではない。40年以上も前から格差是正や女性の地位向上に取り組んできた私としてはジェンダーバッシングをしてきた安倍政権、非正規を増やし格差拡大を続ける安倍政権の打倒を目指して闘ってきたのだから、党から追い出されたからといって活動をやめる理由は何もない。

  • 多様な分野の人々の応援そんな私に杉並区内の人々も、全国の支持者も、そして様々な分野の人たちが支援の声をあげてくれ、この夏、参院選と同日か近い時期に衆院選があれば、必ず勝てるようなところまで準備を進めていた。シールズやあちこちのデモで目にした人も多いと思うあの「アベ政治を許さない」の文字を書いた俳人金子兜太さんがチラシやのぼりにその文字を使うことを快諾してくれたし、小林節さんは「ポスターでもチラシでも街宣でも何でも円さんの応援をする」と言って、「立憲主義とアベ政治」のシンポジウムを主宰した際のパネリストにもなってくれた。その小林節さんは、野党が結束して闘うべきだと旗を振ってコーディネーター役をしていたと思っていたが、何があったのか「岡田さんらに業を煮やした」と、自ら参院選で闘うため確認団体を立ち上げたのだ。そして5月28日、「同日選がないなら、円先生、一緒に闘ってくれませんか」との要請があった。同日選で衆参共に2/3を取らせず、立憲主義を否定するような改憲を許さないために闘うつもりだった私は、衆院選が遠のいた時、立憲主義を守るために立ち上がった小林節さんを見捨ててはおけないと思った。参院比例の厳しさを私はよく知っている。よほどの知名度があるか、大きな組織がないと当選できない。民主党(今回は民進党)の場合、比例で当選できたのは大労働組合や大宗教団体がバックについた人だけだ。

    新潟で有名で大臣経験者だったとしても田中直紀さんは落選。東京選挙区で100万以上の票を得て当選したこともある大河原雅子さんも落選。党のバックがあっても、公営掲示板にポスターを貼れない比例候補は、出馬していることを全国に周知するのが難しいし、未だに個人名を書いてもらった票が多くないと当選できないことが知られていないのだ。そして一人が当選するには党としての獲得票と個人票すべての合計で100万票が必要である。

    できたばかりの「国民怒りの声」が人々に投票してもらえる保証はない。それでも私は決断した。それは、立憲主義を守りたい、アベ政治を許さないと活動してきた私にとってみれば、たとえ借金を重ねても、逃げる選択肢はなかったからである。

  • 立憲主義を守る護憲的改憲を私たちの手で
    そして国民は改憲を選んだ。安倍政権は改憲を争点にしていなかったし、国民は立憲主義についても2/3の意味についてもほとんど無関心だったという意見もある。また2/3の改憲派勢力と言っても、中身は様々だから恐れることはないという人もいる。しかし衆参共に2/3の改憲勢力が生まれたことは厳然とした事実であり、国民は改憲を選んだと言っても言い過ぎではないだろう。参院選のさなかから劇場型の都知事選が連日連夜TVで放映され、次はリオオリンピックである。視聴率が取れるものにTV局が飛びつくのは当然。オリンピックには問題がありすぎると思っている私だって、レスリングの吉田沙保里さんには涙腺がゆるむし、努力などと簡単に言えない血のにじむような訓練を重ねてきて闘う選手たちには勇気と感動をもらっている。しかし、こうしてどんどん目立たなかった参院選はさらに忘れ去られ、気づいた時は「えっ、憲法に緊急事態条項を入れちゃうの?」なんてことにならないか恐ろしい気がするのだ。負けを覚悟で立憲主義を守る闘いに参入した私ではあるが、参院選に負けたに過ぎない。これからなのだ。憲法改正は次の衆院選の争点になるだろう。ならば、立憲主義を守るための憲法を私たちの手で作り出せばいい。立憲主義について、私たちは議論を深めよう。誰でもわかるとっつきやすい言葉で。ここに私は「立憲主義推進機構(仮称)」を立ち上げ、どの条項でもいい、皆さんの手で憲法のここをこう変えたい、ここは変えるべきではないという投稿を受け付け、広く議論を深めていきたいと思う。1992年、私を政治の世界に誘ったのは細川護熙元総理であり、彼の立ち上げた日本新党で私たちは「護憲的改憲」を議論してきた。1/4世紀が経ったが、今こそ私は、護憲的改憲論を深めるべきであると思う。

    私には二人の孫がいる。一人は2014年7月1日、安倍政権が集団的自衛権の行使容認を閣議決定するという暴挙に出た日に生まれた。もう一人が生まれたのはこの5月、小林節さんが立憲主義を守るために勇気をふるって参院選に参入するため確認団体を立ち上げた日だ。

    こうした幼い子どもたちが、20年後、30年後に、なぜ2016年夏の参院選で大人たちは2/3を阻止できず、たった70年で平和な社会を捨て戦争への道を進んでいったのかと恨むことのないように私たちは行動する責任があると思う。

    この2016年夏の参院選はあとから見ればそれほどにこの国の行方を左右する選挙だったということである。だからこそ、黙っていてはいけないのだ。

2016年8月26日
円より子

私たちの憲法をとり戻すために!